「J-POPはつまらない」という意見とその要因についての考察(後編)
良い音楽とは
これまで、“良い音楽”と繰り返し発言してきたが、そもそも良い音楽とはなんなのか。これについては議論が大きく分かれるところである。
実のところ、私自身「本当に良い音楽が評価されてほしい」と切望しながら、さて「良い音楽の定義とは」と聞かれれば言葉に詰まってしまう。
しかし、良いと感じる何かしらの共通する要素はあるはずである。
そこで、その答えを探求すべく、まず比較対象として海外の音楽を題材に考察を試みた。「J-POP(Japanese Pops)がつまらない」と嘆いているからには、海外の音楽には概ね満足しているはずだからである。
目次
洋楽との比較
海外の音楽と聞いてまず浮かぶのは洋楽であろう。私はUK音楽も好きだが、今回は分かりやすい所のUS音楽と比較してみようと思う。下の動画は米国最大の音楽チャート『Billboard』が発表した2016年5月21日付の総合チャートTop50である。
Top 50 Songs Of The Week - May 21, 2016 (Billboard Hot 100)
ここ最近海外のチャートを見る機会が無かったため、全体的にクラブミュージックが大半を占める傾向にある事に少し驚いた。(Drakeはなんと10曲もランクイン)
さて、ここにある全てが“良い音楽”かと言われればそれは私一人で判断できるものではない。が、少なくとも我々日本のチャートと比較すれば、遥かに健全で良い音楽だと言える。
では具体的にどこが良いのか。
ジャンルにより異なるが、全体を通して実際に私が洋楽の良いと感じる部分をまとめると以下の通りである。
- 歌唱力
- 表現力(歌詞や唄い方の感情の乗せ方、外し方、遊び方)
- 音(演奏やトラックのクオリティ)
- ダンス(技術・質・表現)
- 曲の構成(自由さ、面白さ)
- 独自性(表現者や各ジャンルの背景にある文化・ルーツ)
- 革新的(新しい表現への探究心)
他にも良いと感じる要素はあるが、言葉にするのに時間を要する種類のものであるため割愛する。
上に挙げたものは、商業的エンターテイメントにおいて非常に単純で当たり前の条件である。もちろん全ての条件をクリアせよと言うものではない。歌が下手でも魅了される音楽も当然あるし、その場合は別の部分で何かズバ抜けた要素が何かあるべきである。
よって、これらの条件を少なくとも1つはクリアしている事が“良い音楽”の最低限の条件ではないかと現時点では考えている。満たしている条件が多いほど、またはいずれかが突出して秀でているほど“素晴らしい”ということになる。
米国には様々な色濃い文化を持った音楽のジャンルが集合して存在しており、バラエティに富んだチャートである事も魅力のひとつであった。それだけに、上に載せた動画では打ち込みの音楽が大半を占めていて偏りがちなのは少し残念であったが、それでも曲のクオリティは高い。日本の現状と比べれば、私にとっては概ね納得出来るチャートであった。
一方、J-POPの最新チャートも確認しておいた。
日本で最も知名度のある音楽ヒットチャート『オリコンチャート』にて発表された2016年6月13日付(と書いてある)のTop25である。動画の投稿者には感謝したい。
Jpop Oricon Weekly Chart Top 25 Week 24 [ 2016/06/13 ]
Billboardの後にこれを観ると色々と込み上げるものがある。
文化も人種も違う米国音楽と同じレベルを日本にも求めるつもりはないが、少なくとも上で挙げた条件の中のせめて1〜2つくらいは満たして欲しいところである。
この動画内で個人的に概ね納得の出来るものをしいて挙げるとすれば、
25位BACK NUMBER、19位ポルノグラフィティ、16位FLOW BACK、10位LIMITED SAZABYS、ぐらいであった。後ろの二組は初めて知った。
その他はやはりアイドルが多い。彼女、彼等には上で挙げた条件に該当する要素が殆ど無いと言ってよい。技術はあるが、それでも「素人よりは」というレベルである。しかし本人は努力も練習もしているのだろう。ただ、同じくらい努力してもっと優れた作品を残しているその他大勢を差し置いて売れているのはなぜかと勘ぐれば、容姿やキャラでの評価であるという以外に想像がつかない。本人達に非は無い。買う側の問題である。
ちなみに、Billboardとオリコンではそもそも集計方法が異なるため、参考までにiTunesのダウンロード数ランキングも確認してみたが、印象としてはあまり大差ない。しかしオリコンよりは比較的健全なチャートであった。(アイドル勢が総じて消えていたのは非常に面白い現象であったが、これはジャニーズ事務所がオンラインでの音楽配信を行っていないのと、AKB系の握手券商法が主な要因であるようだ。)
米国の音楽との比較により“良い音楽の定義”が少し理解出来てきた気がするが、もうひとつ比較対象として取り上げておきたい国がある。
お隣、韓国である。
K-POPとの比較
K-POPは、今や日本をはじめ世界中へマーケットを広げ、一時期は本家『米Billboard』のカテゴリ欄に掲載される(現在は見当たらなかった)など、人気コンテンツへと成長を遂げてきた。同じアジアの隣同士でどのくらいの違いがあるのかという事で、比較してみた。
『K-VILLES [TOP 30] K-POP SONGS CHART』という韓国のトップチャートの動画が投稿されていた。2016年6月現在の最新ヒットチャートである。
K-VILLE'S [TOP 30] K-POP SONGS CHART - JUNE 2016 (WEEK 3)
まず、例外なく全てダンスミュージックである。
曲調は海外のPopsやEDMからの影響が色濃く出ており、そのMVのほとんど全てが、「どこかのスタジオのセットでカメラに向かって踊る」というコンセプトのビデオである。この点はJ-POPの“似たような曲ばかり”という現象と共通するかもしれない。
この現象は、そもそもK-POPの楽曲自体が海外のマーケットを意識して制作されたものがほとんどであるのと、韓国の大手芸能プロダクション事情に起因するものである。
日本で言うところの「ジャニーズ事務所」や、EXILE等が所属する「LDH」のようなプロダクションがいくつか存在し、アーティストの育成から楽曲やダンスのプロデュースを行うスタイルが音楽業界を占めているようだ。
さて、ここまで見ると、一見日本のJ-POPの状況と似ているようにも思えるが、ひとつだけ大きな違いがある。楽曲のクオリティが高いという点である。
歌詞は理解できないが、海外マーケットを意識しているだけあってトラックや歌唱力、英語の発音、ダンスの質は素人目にもかなり高く、単純に曲としてカッコイイと思えるものが多い。(16位の曲で米国のFabolousと共演しているのにも驚いた)
日本と同じく量産型アイドルの傾向にある楽曲が多いが、楽曲やダンスなど、単純にショーとしてのクオリティは西洋のそれに勝るとも劣らぬ完成度である。これは評価に値する。
しかし一方で、言うまでもなく「独自性」には乏しい。
日本のアイドル文化は、「ファンが歌いやすい歌」「踊りやすい振付」が重視される傾向にあるが、これは明らかに日本国内で発展してきた価値観であり、良くも悪くも”独創的”だと言える(しかし幼稚である)。それと対象的にK-POPは「海外の模倣」に留まっている印象が強い。
この先K-POPが、現在のクオリティに加えて「独自性」を発展させてくる事があれば、いよいよ面白くなりそうである。その点は今後の動向に注目したい。
“良い音楽”と“好きな音楽”の区別
K-POPは、独自性には乏しいがショーとしてのクオリティは高いものであり、評価に値するという意味では「良い音楽」であると言って良いと思う。(もちろん曲によってその度合いは異なる)
しかし、K-POPや先の動画にあったBillboardの大半を占めるクラブミュージックもそうだが、私自身それらを好き好んで聴くかといえば、そうでもない。楽曲にもよるが、興味のないものは多数ある。
「別に好きではないが、評価されるのは納得できる」という事である。
例えば最近でいうと、今や色んな意味で有名となった『ゲスの極み乙女。』というバンドがある。私は(世代的にも)特に好き好んで聴きはしないが、楽曲は革新的で完成度も高く、現在の邦楽ロックの代表として異論はない。特に好きではないが、こんなJ-POPの現状で彼等がオリコンチャートにランクインした事に安堵すら感じている。
それとは逆に「たいした曲ではないが、好き」という事もある。
それは特定の思い入れのある曲であったり、それこそ応援しているアイドルグループの曲だから買わなきゃ、という一種の執着心から発生する場合もあるだろう。
現在の日本の音楽、とりわけ「J-POPがつまらない」という問題を語るにあたって、この“良い音楽”と“好きな音楽”の区別はハッキリしておかなくてはならない。
音楽の好き嫌いは自由である。いかなる理由であれ、好きなものは誰にも否定できない。しかし必ずしも「自分が好きな音楽=良い音楽」とは限らない。
アイドルが好きで、可愛い(格好良い)からCDを買う、というのも自由である。
好きなアニメの主題歌を買う、これも自由である。
しかしその場合、純粋な「音楽」としての評価とは実は皆無であることをまず理解しなくてはならない。理解したところで現状は変わらないかもしれないが、まず理解してもらわない事にはどうにもならない。もはや日本はそこから始めなければいけないレベルである。
まとめ
音楽は自由である。
もちろん日本の音楽も自由であるべきである。
しかしどこか不自由である。
J-POPが日本から無くなればいい、とは決して思わない。
彼等を必要とする者がいる限り、それは無くなるべきではないだろう。
しかし、制作側もオーディエンスも、せめて純粋な「音楽」としての創造性を維持し追求することは可能なはずである。大多数のリスナー側がそれを求め、制作側がそれに答える、という構図を取り戻すだけで、日本の音楽業界は自然な形で動き出すはずである。
しかしもはや停止してしまっている。
「日本の音楽シーンは死んでいる」とさえ言われる。
かろうじて動いているのは、雑誌やネットのみに露出を絞った邦楽ロックや、水面下で活躍するヒップホップアーティストくらいである。しかしどれだけフェスに引っ張りだこでも、最大のメディアであるテレビに出れば「誰?」となる。もはや慣れすぎて忘れていた事だが、これは非常に悲しい現状ではないだろうか。
J-POPは、ミスチル以降に大量に模倣された鉄板の楽曲構成でほとんど形成されている。「売れる曲はこうだ」という制作側の揺るぎない固定観念と、尚も変化を嫌うリスナーとの間で「どこか不自由である」ことに違和感を抱きつつも、違和感の正体を暴くことができずに、ついには考える事をやめ、今日も同じ事を繰り返しつづけている。
日本がこの思考停止状態から抜け出すためには、消費する我々が一人一人気付いていかなければならない。「日本の音楽はつまらない」といわれて久しいが、そんな事は無い。この国には既に、世界に誇れる素晴らしい音楽が沢山存在している。
それを是非探して、聴いて、買って欲しい。文化を形成するのは業界でも製作者でもなく、リスナーの我々である。
素晴らしい音楽が正当な評価を受け、賞賛と批判によりせめぎ合い、また新しい文化が形成されるような、そんなごく当たり前で健全な時代がやってくることを切に願う。
非常に長文になってしまい、執筆に時間がかかり過ぎた事を反省している。
しかしこれでもまだ書き足りない事が沢山あるため、それらはまたの機会に書こうと思う。それを踏まえて次回からはよりコンパクトに、よりコンスタントにブログ生活を営んで行きたいと思っている。